君はまたみづうみを見てきたやうな眼で未来という嘘をうべなふ 空岡邦昂
何とも言えない静謐な美しさに満ちた歌だ。そしてその美しさを支えるのは、逃れようもない現実の残酷さだ。湖を見てきたような眼、というのは、湖を写し取ったかのような眼だろう。湖は太古からそこにある。批判もせず、哀しみもせず、喜びもせず、まさに古書「水鏡」が水をもって歴史を映し出す鏡となしたように、人々のむなしい人生や殺し合いを写し、時にはそのむごたらしい死体もろとも飲み込んで、また元の鏡のように澄みきる湖。美しく澄んだ目というのは、実は死んだような目なのである。明日があるかのように、明るい未来があるかのように、とりあえず今日は話さなくてはならない、そうでなければ今日というこの一瞬すら崩壊してしまうから。自らの虚しい現在を虚しい明日へと繋げるためだけに、湖の目を持つ人は優しい嘘を今日も受け入れるのである。
七(なな)たびのオペより死ぬるは恐怖なり恐怖なれども一回きりか 田巻幸生
僕も二回、オペを味わった。腹を切り裂く手術は恐怖そのものだ。それだけは嫌だと抵抗したが無駄であった。しかし、いざオペに臨んだときのあの麻酔の効く一瞬の何という安楽さよ。「注射打ちますよ」と同時に訪れたあの完璧な暗黒。開高健は、胆石で手術した時のこの麻酔の感覚を、「もしも死がこのような物であるならば完璧と言わざるを得ない」と述懐しているが、まったく同感である。作者は、七回ものオペを経験し、七度目覚めた。それでも死は恐い。だが、結句で、その恐怖も一回きりと悟っているあたりにリアリティがある。まさに、死は一回きりだ。だからこそ恐怖であり、だからこそ憧れなのだろう。いい歌だ。
旗を持つ交差点のをばさんに涙みつかり肩いだかれし日 三好くに子
この一首を読んで、僕は涙が出そうになった。泣いている時、慰めてくれるのが友人知人家族だったら、それは大して慰めにはならない。だが、まったくの見知らぬ他人の行きずりの優しさに包まれた。それはどれだけ嬉しく、凍り付いた心すら溶かす体験だろうか。行きずりの人に同情心を示すのはほとんどの場合、をじさんではなくをばさんである。をばさんは共感力が高く、さらに孤独さや傷つきに対する感性も鋭い。だから僕は、をじさんではなく、をばさんのほうが好きなのである。この歌の描き出す光景が愛おしい。涙みつかり、という表現がいいなあ。結句の、「肩いだかれし」がまたいっそういい。本当に、胸が切なくなる一首である。ありがとうございました。
束の間の家族の微笑(ゑみ)や夕波(なみ)湛ふアイスキャンディ溶けてこぼれき ―ー安輝素日記より―ー
この記事へのコメント
三好くに子
あたたかな評をいただき、ありがとうございます。
「旗を持つ交差点のをばさん」は、本来は子ども達を交通事故から守るために、毎日その場所に立っておられます。でも、足元のおぼつかない高齢者さんにもよく声をかけていらっしゃいます。わが地域の、屈指の交差点を守ってくださっている女神のような方です。
日々の労に対し、私は尊敬の気持ちからの黙礼を小さく差し上げていたのですが、あるとき(無自覚のまま)ボロ泣きしながら歩いていた日、駆け寄ってこられ、「大丈夫よ!」と言いながら私の肩を抱いて揺さぶってくださった。私は帽子を被ってマスクをしていました。でもこの「をばさん」には見つかった。否、見つけてくださった。この瞬間の私の気持ちをあらわす言葉はありません。ただただ胸が熱くなりました。
それでも、あの日のことをどうしてものこしておきたくて、稚拙ながら、短歌に詠みました。
それをまた、黒田さんが見つけてくださった。
ありがとうございます。