とある歌会において、とある参加者が言ったのだそうだ。「私は現実世界の苦労や醜さから目をそむけたくて短歌をやっているのだ」と。キミキミ、それは違うだろう。日常生活の苦しさから逃れたかったら、短歌なんてもんには踏み込まないがよろしい。短歌の本分は現実世界の最低と汚濁と残酷と冷笑にまみれ、それを戯画化することによって惨めな自分を肯定することにあるのである。まさに、貧者、病者、中毒者のただれたかさぶたからだだ漏れる膿に耽溺し、膿にまみれて詠うことにこそ、短歌の存在意義はあるのである。短歌というのは基本的に悲しみの文学であり、現実から逃れるために短歌をやろうなどという姿勢は土台からして間違っている。現実と真向かい、そのリアルを詠いつつも、それこそを精神の安定剤としてこの韻律に賭けることこそが短歌の本懐なのだと、僕は思う。とにかく僕は、心打たれる短歌を読みたいと、毎月目を皿にして「塔」「短歌人」を読んでいる。来年も、私の心を突き動かす短歌に巡り会いたいと切に願う次第である。
№4408 真情溢れる短歌を
「塔」にしろ「短歌人」にしろ、出詠歌を読んでいてつくづく思うのは、この不況と不幸に満ちた現世において、生活歌があまりにも少ないということだ。本当に、この世界の不条理と苦痛を詠っている者は数人しかいない。特に、「塔」においてそれは顕著だ。もう、どーでもいいことを57577にまとめてみました、てな感じの「韻律作文」ばっかり。そんな作品を、「新樹集」「百葉集」に載せているが、こんな日常詠の作文のどこから樹や葉が生えるのだと、僕は憫笑するしかない。選歌がつまらん。本当につまらん。
とある歌会において、とある参加者が言ったのだそうだ。「私は現実世界の苦労や醜さから目をそむけたくて短歌をやっているのだ」と。キミキミ、それは違うだろう。日常生活の苦しさから逃れたかったら、短歌なんてもんには踏み込まないがよろしい。短歌の本分は現実世界の最低と汚濁と残酷と冷笑にまみれ、それを戯画化することによって惨めな自分を肯定することにあるのである。まさに、貧者、病者、中毒者のただれたかさぶたからだだ漏れる膿に耽溺し、膿にまみれて詠うことにこそ、短歌の存在意義はあるのである。短歌というのは基本的に悲しみの文学であり、現実から逃れるために短歌をやろうなどという姿勢は土台からして間違っている。現実と真向かい、そのリアルを詠いつつも、それこそを精神の安定剤としてこの韻律に賭けることこそが短歌の本懐なのだと、僕は思う。とにかく僕は、心打たれる短歌を読みたいと、毎月目を皿にして「塔」「短歌人」を読んでいる。来年も、私の心を突き動かす短歌に巡り会いたいと切に願う次第である。
とある歌会において、とある参加者が言ったのだそうだ。「私は現実世界の苦労や醜さから目をそむけたくて短歌をやっているのだ」と。キミキミ、それは違うだろう。日常生活の苦しさから逃れたかったら、短歌なんてもんには踏み込まないがよろしい。短歌の本分は現実世界の最低と汚濁と残酷と冷笑にまみれ、それを戯画化することによって惨めな自分を肯定することにあるのである。まさに、貧者、病者、中毒者のただれたかさぶたからだだ漏れる膿に耽溺し、膿にまみれて詠うことにこそ、短歌の存在意義はあるのである。短歌というのは基本的に悲しみの文学であり、現実から逃れるために短歌をやろうなどという姿勢は土台からして間違っている。現実と真向かい、そのリアルを詠いつつも、それこそを精神の安定剤としてこの韻律に賭けることこそが短歌の本懐なのだと、僕は思う。とにかく僕は、心打たれる短歌を読みたいと、毎月目を皿にして「塔」「短歌人」を読んでいる。来年も、私の心を突き動かす短歌に巡り会いたいと切に願う次第である。
この記事へのコメント
やまもとうみ
黒田秀雄と言うお名前、あれっ確か短歌人の歌人ではなかったか?十数年ぶりに聞くお名前に驚きました。でもなんだか懐かしい‥