№3600 「チョコレート・ガール探偵譚」吉田篤弘(平凡社刊)

 図書館で、ふと題名に惹かれてある本を手に取った。タイトルは、

「チョコレート・ガール探偵譚」。著者は吉田篤弘。初めて聞いた名前だが、けっこうな著書を出している作家さんだそうである。

 僕がなぜこの書名に惹かれたかというと、成瀬巳喜男監督、水久保澄子主演の幻の映画に「チョコレート・ガール」というものがあるからだが、それとは関係ないよなこの本。

 と思ったら、関係あるどころの騒ぎではない、思いっきり映画「チョコレート・ガール」についての本だった。

 著者はチョコレートが大好きな作家である。それ故この映画の題名に惹かれて調査を始めたのだそうで、その顛末を綴ったこのノンフィクション、実に面白い。

 「チョコレート・ガール」は、昭和7年制作、成瀬巳喜男監督、水久保澄子主演作品である。明治製菓とタイアップしての映画だったらしい。しかし今は誰もこの映画を観られない。なぜかと言うと、フィルムがないからだ。水久保澄子は、これに先立つ前作「蝕める春」で三人姉妹の三女「香澄」を演じ、大フィーヴァーする。元々この作品は、逢初夢子を売り出すためのものだったが、脇役のはずの水久保の人気が爆発した。その後に撮られたのが「チョコレート・ガール」だ。成瀬作品における水久保の映画は、常に、貧乏のために自らの夢を諦める可憐な少女の悲劇を描いていた。「チョコレート・ガール」も、好きだった職工の恋人を生活のために諦めて、金持ちの男に嫁ぐヒロインの物語である。同じく、その後の水久保のサイレント映画の傑作であり、成瀬巳喜男の傑作とも言える「君と別れて」でも、妹を芸者にさせないため、恋人とも別れる、住み替えという非常な儀式のためだ。これは単なる芸者から、高級娼婦へと墜ちていくことを意味している。「チョコレート・ガール探偵譚」の著者は作家のせいか、映画を脚色した永見隆二のことや、映画の原作を読みたくて映画を追跡し、この本を書いた。正直言って、著者が探り当てた水久保澄子や成瀬巳喜男についての事実は、ほとんど僕がすでに知っていることだった。ただ、びっくりしたことがある。「明治100年女優祭」を、演劇協会が開催した際、水久保澄子を呼んではどうかという話があったそうだ。当時彼女は消息不明だったのだが、とある女優(誰かはわからない)が、「水久保さんは生きてらっしゃいますよ」と言ったのだそうだ。関係者は、呼ぼうかとも思ったが、落魄して困窮しているであろう彼女を呼ぶに忍びないと、招待するのを諦めたそうだ。水久保澄子は戦前上海で、落ちぶれたにも程があろうに上海でダンサーをしているところを映画評論家に目撃されたという。戦後はとっくに、どこかで斃死したことであろうとばかり思っていた。が、しっかり生き延びてらっしゃったのだ。水久保澄子に関してはこの日記でさんざん書いているのでもう言わないが彼女の人生は正に、女優として生き、女として辛酸を舐めた戦前の歴史を体現したものだと思う。女優というものは、それが役者であることに人生を捧げて悔いないような人物
であればバケモノとなり男を食いマスコミを食ってたくましく生き延びるが、水久保澄子はまったくそういうタイプではない。たまたま貧しい家に、たまたま美しく生まれ、たまたま浅ましい家族親戚に食い物にされ、たまたま最低最悪な男と出会ってしまった、芝居なんぞひとつもやりたくはなかった一人の少女でしかなかった。彼女の手記に、こういう一文がある。「十七の人形のように機械扱いされる」。撮影所が、女優を人間扱いしていなかったということだ。当時の撮影所は、AVよりもひどかったと見える。原節子も手記で、撮影現場の男どもはけだものだと述懐している。監督というものは男社会の頂点に立つ暴君で役者なんぞ人間と思っておらず、中でも女優なんぞは女でなおかつ河原乞食なのであるからして、怒鳴ろうが罵倒しようがいっこうに問題ないゴミとしか思ってなかったらしい。水久保自身も、相当なセクハラを受けたらしい。そりゃあ、女優辞めたくもなるよなあ。

 日本のマスコミは、成瀬巳喜男の黎明期を彩った水久保澄子という不運な、美しいひとりの女優に焦点を当て、復権させてほしい。彼女の人生を題材にドラマ化してほしい。彼女こそ、マスコミに持ち上げられ、マスコミに殺された女優第一号なのだから。

 僕は、戦後、水久保さんがご存命だったということを知って、思わずこう声をあげた。

「何!? 水久保澄子が生きている!?」
(「砂の器」の内藤武敏の物真似でお楽しみください)

 僕は、残酷だと言われても、水久保さんが生きておられるのなら、どんな姿でもいいからお会いしたかった。いくらなんでもすでにこの世にはおられないだろう。水久保澄子といい、星由里子といい、語り合いたい人はことごとくこの世にはいない。星由里子の若大将シリーズにおける役名もスミちゃんだったなあ。水久保澄子と星由里子は、戦前の若旦那シリーズのヒロインと、戦後の若大将シリーズのヒロインをそれぞれ演じたスターであった。なんかこのふたりの女優に、薄幸のイメージがつきまとって仕方がない。

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