№3539 歌壇は文学として死んでいる~私だけの記録79~

 日本経済新聞10月1日の記事。「酷暑五輪見えた課題」。今さらながら爆笑した。今そんなこと言うんだったら、JOCが真夏の東京五輪開催を企てているときに言うべきであったろう。来年の東京五輪の開催は7月24日から8月9日。日本が一番暑い時期である。そんな無謀な大会を招致していた真っ最中に、マスコミがそのことを指摘して批判しなかったとはどういうことであるか。日経のこの記事は、今に至るまで政財界に影響力を持つマスコミすらがこの期に及ぶまで東京五輪を批判できなかったということの証左であり、もってマスコミは全員恥じ死にすべき醜態の証拠である。オリパラ関連予算は実に2兆3000億。未だに、震災被害者は隙間風の吹く仮設住宅に押しこめられているというのに、マンションが100件は建ちそうな予算を無駄遣いしてなんの愚挙かこれは。

 俺がこういう論調で始めたから「今日は歌壇は批判されないのだな」とほっとしている皆さん、残念でした。歌壇なんぞは俺にとってこの件で最も有罪である。安倍政権を批判する時事短歌はやたらと多いが、五輪を批判する短歌なんぞお目にかかったためしがない。それどころか、スポーツを礼賛するようなくだらねー歌が目白押しである。歌壇はいったい、来年の五輪開催に対してどう思っておるのか。安倍政権を通りいっぺんにぬるく批判する短歌で時事を詠ったつもりだろうが、目の前の、第二次大戦にも比すべき愚劣な国策である東京五輪を批判する視点を持って戦おうとは思わないのか。どうせ、歌人特有の保身上手な本能にかられて、これを批判したらたとえば歌会初めに呼ばれるような歌人とのコネクションを失いたくないとか、そんな計算を働かせてるんだろうがよ。歌会初めとは全く関係のない木っ端歌人までもがよ。

 「短歌人」10月号で藤原龍一郎が、「猛暑」というタイトルで、来年の猛暑五輪への懸念を詠ったまことにもって真っ当な連作を発表した。他の歌人どもは、来年の五輪をいったい全体どう思っておるのか。シカトウを決めておるとしか思えない。短歌というものが本来持っている、時事と取り組む力を行使しようともせず、成り行きに任せて我関せずを決め込み、超越ヅラをするつもりらしい。クソと言ってはクソに申し訳ないほど、大多数の歌人は事なかれ主義のヘタレぞろいである。僕は、来年の五輪への批判がまるで出てこない歌壇というものは本質的に文学として死んでいると思う。今の短歌はつまらん。本来の、反逆者、病者、敗北者、犯罪者、娼婦、狂人、人格破綻者の武器であった使命を放擲し、大政翼賛の道具になり下がり、便所のカレンダーの絵みたいな歌もどきをとなえて宮中歌会に呼ばれて喜んでいる。僕が今信頼できる選者は栗木京子と藤原龍一郎だけだ。

長月再生マイビデオ

3日 「生きる」(昭和27年東宝、黒澤明)
4日 「夕やけ雲」(昭和32年松竹、木下恵介)
5日 「海の若大将」(1965年東宝、古澤憲吾)
12日 「ゆきゆきて神軍」(1983年疾走プロ、原一男)
17日 「流れる」(昭和32年東宝、成瀬巳喜男)
19日 「野菊の如き君なりき」(昭和30年松竹、木下恵介)
https://www.youtube.com/watch?v=5RvPQUCnKps
24日「女系家族」(1963年大映、三隅研次)
25日「約束」(1972年斎藤プロ=松竹、斎藤耕一)
26日「股旅」(1973年崑プロ=ATG、市川崑)
https://www.youtube.com/watch?v=erGDN9jgl6A
30日「大怪獣バラン」(昭和33年東宝、本多猪四郎)

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