№3537 「塔」九月号・陽の当たらない名歌選2~少年と太田裕美~

      「塔」九月号・陽の当たらない名歌選2

「うん、ゆこう」どこに行くのか少年よ君の背中は振り返らない 今井眞知子
ちさきこの耳に届きしうつしよの最期の音はわが鼾かも 高阪謙次
死者はみな遠くから呼ぶ校庭を細く流れるオールド・ブラック・ジョー 森川たみ子

深爪の底に溜まってゆく怒り 父のいびきが聞こえなくなる 田村穂隆
選者を「くん」付けで呼ぶ女性いて奥さんだったと5年後に知る 北野中子
新生児グッズ売場のあかるさよ追われるように買い物をせり 魚谷真梨子
爪音をたて歩くゆゑ居る場所がすぐに知れたり その音いま無し 高阪謙次
背の低い少女が日本語英語タイ語にてカレーの注文捌く新宿 徳田浩実
制服を着たまま電球取りかえて 笑えるくらい処女だった 森永理恵
ありふれた言葉を選ぶ もう二度と会わない人とかわす会話は 佐藤涼子
葦の葉の先なびかせて吹く風が時おり低く飛ぶ燕を掬う 森川たみ子
首都高を晴海方面へとすべるこんなにエロく濡れた路面よ 工藤真子
開襟のブラウスに見ゆ水平に横たはる君の鎖骨のしづか 千野みずき
痛ましく焦げし遺体のその下に小さき遺体を庇ひ抱きしむ 河野 正
路肩には休むトラックの連なりてそのことごとくに老い眠りをり 三好くに子
日雇いバイト帰りの君を待つ自分の顔が真剣だった 多田なの
飴玉を転がすやうに歌ふから歌詞がかなしくても気づかない 濱松哲朗
傷もたぬ人間をらず飲み口のかけたる椀でのむ茶のうまし 木原樹庵
都忘れ花のさかりを過ぐ根方くちなわ憩うお前も生きて 中村ヨネ子
人間は涙ながせば重くなる身体であるよと砂利を踏みつつ 椛沢知世

      一首評

「うん、ゆこう」どこに行くのか少年よ君の背中は振り返らない 今井眞知子

 青春を歌うものとしての日本のフォークソングには名歌が多いが、どれもどこか今ひとつぬめっとして湿っぽく、情緒の沼に足をとられて沈んでいくような感傷が鬱陶しい。「若者たち」しかり、「出発の歌」しかり、小椋桂の名曲「木戸をあけて」しかり。それぞれ、確かにいい曲なんだが、とにかくじめついていて鬱陶しい。感傷的情緒でじくじくしていて、うんざりするのだ。それに比べて掲出歌はいい。直裁だ。結句がいい。うん行こうと決めて去り行く少年の背中は振り返らないという。そう、振り返らないという結句が実に潔くて気持ちがいいのだ。日本の歌は、いつもいつも置いてきたものを振り返り、捨ててきたものに謝り、未練たらたら、涙とか汗とかを引きずってなめくじみたいに跡を残しながら旅をするもんだから湿っぽくてクサいのだ。この歌の初句の決意と、結句の覚悟。疾走感に溢れた、名歌中の名歌である。僕はこの歌の前に約20分もの間立ち止まり、爽快感を味わった。

飴玉を転がすやうに歌ふから歌詞がかなしくても気づかない 濱松哲朗

 作者が誰のことを詠ったかは知らないが、僕はこの歌を読んで、すぐに太田裕美を連想した。正に彼女の声は飴玉を転がすようだった。「君と歩いた青春」「なごり雪」「友達よ泣くんじゃない」。彼女の歌声は、リアリティよりも、そのロマンチズムを表現して、ひたすら感傷の涙に帰るのだ。悲しい、と言うよりも、彼女の歌声から醸しだされる感情は、切なさだった。20代前後の学生時代の甘ったるい感傷など今の僕にはどうでもいいが、太田裕美の歌声を聞くと、その当時の甘ったるい感傷に否応なく引き戻される。飴玉を転がすやうに、という表現が素晴らしい。正に、太田裕美の歌声、そのものずばりだ。こんなことを思わせてくれる短歌という文芸は、本当に素晴らしいと思う。

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