№3079 四月月間ランキング~どうしようもない歌壇の無惨~

      四月月間ランキングベスト8

1位 25日「米軍服(スカジャン)と北朝鮮」 1685
2位 20日「啄木と英雄~吟遊詩人のギター~」929
3位 17日「「塔」四月号・陽の当たらない名歌選1~「何が切実」~」741
4位 24日「奥塩原温泉やまの宿~「下藤屋」~」739
5位 21日「人間のクズだからこそ文学を乞ふ」735
6位 10日「「短歌人」四月号会員欄秀歌選その143」~ふと、だからこそ美しい~」710
7位  4日「時そば」655
8位 29日「シュヴァルグランよ、二強に負けるな~天皇賞春GⅠ~」642

 四月のアクセス数は13198、訪問者数は1859人でした。

 僕は、何度も書いているが、紀伊国屋書店新宿本店に行って、未だに短歌コーナーで歌を立ち読みしている人を一人だに見たことがない。俳句や詩の棚の前にはまだ人がいたりすることがたまにあるのだが。しかし、それ相応の冊数の本が並べられているスペースであるにも関わらず、誰一人として短歌を立ち読みしているところを見たことがない。出版の形態というのは大雑把に言って商業出版と自費出版(共同出版とも言うが、実質著者の持ち出しである)とがあり、商業出版の場合、売れてなければそれはすぐに作者にわかる。再販されないからである。では、自費出版の場合、売れているかどうかがわかるかというと、これは自宅にある在庫がさっぱり捌けないのですぐに作者にわかる。しかし短歌関連書籍の場合は商業であると自費であるとを問わず、どうせ売れないので出したもん勝ちである。情けないのは歌壇も読者も、いい本を発見し売れるようにしていこうという態度がないことである。どちらにせよ言えることは、短歌出版物なんぞは全然売れておらんということである。当たり前だ。歌壇は、魅力的な歌人を発掘し世間にコマーシャルしていくという意欲にまったくもって欠けているからだ。歌壇は、いっそのこと俺様を売り出したほうがましである。孤高の毒舌家である俺様と比べ、歌壇のどこを見渡しても魅力的な文章を書く者などどこにも存在しない。俺様の歌評を超えるものが、短歌専門誌であろうが短歌結社のHPだろうが、各歌人様のブログだろうが果たして存在するであろうか。いや、すまい。右を向いても左を見てもつまらん評論ばっかり書きくさって。

 「短歌人」五月号において、その手のつまらん歌評の極北たる文章を読んで私は感涙にむせんだ。辻和之なる人物による、3月号からの「私が選んだベスト3」という1頁まるまる使ったコラムなのだが、これがひどい。どれくらいひどいかと言うと、やたらと小難しそうな言葉で小難しそうな文章をひねくり出す中学二年生が赤面して改心するであろうくらいひどいのである。文頭に挙げられもっともスペースを割いて誉めちぎられているのは次の歌である。

詞書→(来るバスは追いつかれててすいていた後ろのバスに乗ることになる)
スマホではなかった彼は空を見た空も見ていたはずではなかった 斉藤斎藤

 断っておくが、僕自身はこの歌をそれほど悪い歌だとは思っていない。スマホに映った空を見ている作中主体と、見返されていると思ってもいなかった空との一瞬の交感を描いていると思って思えなくもない。もっとシンプルかつ濃厚に表現するやりかたはあったとは思うが(そもそもそんなもん詠ってなにが面白いとも思うがまあこれは好みの問題である)。真に問題なのは、この歌を誉めちぎろうとして辻某がやらかした文章の、まるでワザとやっとるんではないかと思えるほどの無内容である。全文引用すると長いのでところどころにするが、全文引用したところで同じなので誰も気にしない。以下引用。

>詞書の「来るバス」とは、とどまることなく次々と過ぎ去ってゆく時間の喩でしょう
>そうすると、「すいていた後ろのバス」とは〈まさにいま〉において〈私〉の意識がまだ出来していない時間ということの喩でしょう。
>「私が私である」という自己意識がすでに乗ってしまった「来るバス」の時間の、後ろに来ているかもしれない、
>〈まさにいま〉を「私?」や「彼?」に付与することにより、「私?」や「彼?」に付与することにより、

 くたびれたので引用終わり(笑)。
 くだらない文章を、どうしてくだらないか説明するのは徒労であり実りのない作業だが、こんなくだらない文章を見たのも久しぶりでいっそ感動さえ覚えてしまったので手っ取り早く説明する。
 まず端的に言って、この歌評なる文章は、「わかりにくい文章というのは無内容であり書き手の頭の悪さが露呈している」という説の正しさを証明しているということ。
 解釈の困難な(あくまでも頭の悪い読み手である当人にとって)内容を、「何かの喩えである」と思い込むことによって、作者がむしろ避けている事大主義、主題主義に寄り添っていることに気づいていないということ。
 いらん疑問符をつけることによって文章が難解かつ深遠に見えると思い込んでいるが、ちゃんとした評論を下せない己の頭の悪さを露呈していることに気づいていないということ。
 シンプルで魂に直接響く表現をことさらに軽視することによって、逆に鑑賞の対象である歌そのものに対峙することのできない幼児性をさらけ出していること。

 何が言いたいかと言うと、辻某のこの歌評は、何十年も昔の、エセ文学青年がよくこねくり出していたたぐいのタワゴトであり、まったくの無内容で読むに耐えないということだ。こんな文章を一頁まるごと使って載せる短歌人も短歌人である。この辻某に限らず、大体において短歌の評はひどい。これでは誰も歌集なぞ手に取らないはずである。だいたい、お偉い歌人の先生がたが、真に世に出すべき市井の歌人を発掘することなく、茶坊主に賞を取らせることに腐心しているというのが現状である。

 作品そのものはもとより、それを批評する文章もまたれっきとした表現であり、ひとつの文学作品を目指すべきものだ。有体に言ってあまり文学にも評論にも触れたことのない、表現力に乏しい、それ以前に鑑賞力の乏しい人物に表現の場を与えたりすると、上記のごとき惨状を呈することとなる。辻某の歌評は、筒井康隆が「大いなる助走」で描いた、エセ文学者どものエセ文学評の滑稽を地で行ったものであり、しかもギャグでなく大真面目にやっているところがまことに悲惨である。この滑稽に気づかないところが、結社の病弊であり、歌壇の病弊であるのだろう。

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