№3059 時そば

      時そば     黒田英雄

こたつ蒲団の膝に飼猫(ねこ)のせまどろみつつローン繰り上げ返済決意す

みそおじやの熱さで息の苦しくなるこのボロ肺にも想ひ出は棲む

冤罪を晴らせぬ男の闇のごとP・M四時半冬の陽沈む

オリジンの弁当手に吊げ久左衛門坂降れば一瞬北風(かぜ)に怒鳴らる

飯事の女の子のごと今宵飲む薬並べて麦酒(ビール)を呷る

廃屋と思ひし赤き屋根の家(や)に老婆ひよこつと日向ぼこせり

ひなびたる温泉に入る大晦日ならひとなして十年(ととせ)火照りぬ

東桂駅に降りれば人はなく駅長賞の俳句ずらあり

「都留文科大学前」駅停車中ゆゑなくシルヴィ・バルタン想へり

涙もろくなつたと妻がつぶやけば鈍行電車の横揺れ増せり

この北風(かぜ)は童子(わらべ)の北風(かぜ)ぞ放課後の駈足の帰路(みち)に朽木香りき

ひと気なき元旦(はる)やまざとの懐かしく単線電車ごとごとと行く

「てんや」のみ営業なせる大晦(おほどし)のイーストサイドスクエア温し

強き見出しは弱さの象徴冬の南風(かぜ)さびしき男の顔なで挙ぐる

〝とろろそば〟明日の昼餉だ柳家花緑『時そば』睦月暮れ六つに観て

うどんよりそばを選ぶぞずるずると都に居つくわれは即座に

ゆくりなき右膝(ひざ)の痛みは限りなき心の痛みの感傷潰す

失つてゆくものどんどん減つてゆき年をとるつて良い事だなあ

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