№2446 「塔」六月号・陽の当たらない名歌選2~墨の香~

      「塔」六月号・陽の当たらない名歌選2

冬でした 一人は手握り一匹は胸に抱きて終に寄り添う 加賀まさ子
やむ雨の気配を鳥に知る朝の飛び立つまえの光を入れる 佐藤浩子
訂正印押したきやうな過去がある前髪短き写真眺めて 香西柚茉

笑ひながら子が蹴るたびにきんいろの缶の屈折してゆく光 岡本伸香
降る雪に耳を澄ませば音のあり醪(もろみ)湧く音の降る雪ににる 宇之津金次郎
神様に願ひのなくて老いの身はデパート地下の初売りにあり 前田 豊
一日でいい夫のない身で生きたいと言いて母そは死んでいきたり ジャッキーいく子
突端に悪意はつかにしのばせて夕地下鉄に傘あふれゐき 梅原志野
降りながら消えゆく雪のはかなさに似ると思へば言葉慎む 進藤サダ子
クレームの落ちてくる夜うしろ髪ひとつに束ね席に戻りぬ 香西柚茉
温泉にひととき交はす幸福論 立場の違ふをんなが四人 浅野美紗子
墨の香が癒してくるる老の鬱今夜もひたすら墨をすりをり 高田栄子
過ぎさりし時間のやうに雪はふる手にのるひとひら雪の形(かた)して 田中ミハル
美容院に源氏読みつつその頃の容易ならざる洗髪偲ぶ 藤 かをり
もう少し増しなタイトルなかつたか 子に「甲状腺通信」届く 小林真代
知られたら嫌われそうなところから話し始める大人の恋は 万仲智子
感情線はもはや切り傷サヨナラのためにヒラヒラさせた右手の 万仲智子
五年間まともなケンカしたことない本気でなぐる相手がほしい 永田 玲
たちばかへ尾崎豊になりたいとおもふひもあり出席簿とづ 岩上夏樹
テロの死者数気温のごとく確かめて次の記事へと目を移す我 加茂直樹
世話になりし保険会社の青年が異動を告げる また過去となる 谷口美生
長電話のあとに残れる幾重もの行つたり来たりの幾何学模様 川井志保

      一首評

墨の香が癒してくるる老の鬱今夜もひたすら墨をすりをり 高田栄子

 子どものころは、習字の時間というのがひたすらうっとうしくて忍耐を強いられて嫌なことこの上もなかったが、今になってみるとあの、黒い墨の塊を硯ですっていたときの匂いがあざやかに甦ってくるのに驚かされる。あれは不思議な匂いであった。甘いでなく苦いでなく、おいしくもなくまずくもなく、言うなれば子どもの世界には本来存在しない、年経た木造家屋とかカビのはえた蚊帳とかあるいは縁側の日本猫とか、そういうものに通じるなんとも渋くて奥深い匂いだった。僕の幼少の記憶でいえば、鯉のエサのような匂いである。端的に言えばコケの匂いである。しかしそれが、心安らがせるというのは、今の僕にはよくわかるのだ。下句の静寂の中のアクティブ性が心に染みる。作者の求める精神の安定というものが非常に理解できる秀歌だ。墨をするという行為が、安らぎと感じるのは、まさに毛筆の国の人間の心性だろう。

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